「THE HOUSE 金澤」のスタッフ日記&現場レポート
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本日2009年11月9日はベルリンの壁崩壊から、
20周年です。
実際に壁が崩壊されたのは、翌日以降ですが、
記念すべき日なのではないかと思います。
私も、小学校6年生1990年に、初めて親元を離れて、2週間ですが、ドイツに研修旅行に行きました。
ベルリンの壁が崩壊されたのが、1989年でしたので、まだ1年も経っていない頃でした。
東西ドイツを行き来しましたが、幼い私の記憶に残っているのは、東と西の全く違った世界観・街並み・
人柄・雰囲気でした。
当時は、それほど深くは考えませんでしたが、大変な歴史の1ページに、旅行に行くことができたんだと、
今になって思います。
そのときのお土産でベルリンの壁(金額1マルク≒100円)を買ってきたことをよく覚えています
※よく間違われるのですが、ベルリンの壁は東西ドイツの国境にあるわけではありません。
ベルリンという街は、東ドイツの中にありました。当時社会主義である東ドイツのなかで唯一、
西ベルリンだけが資本主義だったのです。
そのため、自由を求めて西ベルリンに亡命する人が後を絶たず、
東ドイツが築いたのが”ベルリンの壁”でした。
市民が西ベルリンに入るのを阻止することが目的ですから、
壁は西ベルリンを取り囲むように作られました。
(鈴木)
20周年です。
実際に壁が崩壊されたのは、翌日以降ですが、
記念すべき日なのではないかと思います。
私も、小学校6年生1990年に、初めて親元を離れて、2週間ですが、ドイツに研修旅行に行きました。
ベルリンの壁が崩壊されたのが、1989年でしたので、まだ1年も経っていない頃でした。
東西ドイツを行き来しましたが、幼い私の記憶に残っているのは、東と西の全く違った世界観・街並み・
人柄・雰囲気でした。
当時は、それほど深くは考えませんでしたが、大変な歴史の1ページに、旅行に行くことができたんだと、
今になって思います。
そのときのお土産でベルリンの壁(金額1マルク≒100円)を買ってきたことをよく覚えています
※よく間違われるのですが、ベルリンの壁は東西ドイツの国境にあるわけではありません。
ベルリンという街は、東ドイツの中にありました。当時社会主義である東ドイツのなかで唯一、
西ベルリンだけが資本主義だったのです。
そのため、自由を求めて西ベルリンに亡命する人が後を絶たず、
東ドイツが築いたのが”ベルリンの壁”でした。
市民が西ベルリンに入るのを阻止することが目的ですから、
壁は西ベルリンを取り囲むように作られました。
(鈴木)
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